修復的司法のハードル

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 亀田陣営は同日夕、東京都内のJBCを訪れて陳謝。その後、行われた会見で頭を丸めて登場した大毅選手は始終うつむいたまま無言。トレーナーの史郎氏は「ご迷惑をかけて申し訳ありません」と述べたが、内藤大助選手=宮田=に対する明確な謝罪は最後までなかった。

「大毅、頭を丸めて無言 内藤陣営に謝罪なし」スポーツ‐格闘技ニュース:イザ!


 少年非行ではないが、ルール違反に対するペナルティと復帰という点でみれば、共通する問題ともいえる。よく非行の原因は家庭にあるとかいわれるが、この件でも、原因は父親にあるとする報道が多いのは、その共通性をより浮き上がらせるかもしれない。
 この謝罪会見までの報道は、なぜ謝罪しないのかということが強くいわれていたし、この会見においても、協会にではなく、「被害者」である対戦相手に謝罪するのが先ではないかと、追求するマスコミが多かったのではなかろうか。
 近年強くいわれている被害者関係的(被害者心情同化的)司法(こんなものを司法=justiceというのか疑問だが)では、こういった加害者から被害者への謝罪を第三者が強く強要する傾向がとみにましてきている気がする、という点でも、共通性を見て取ることができる。
 強要ではなくとも、そうせざるをえない方向へもっていってさせる謝罪というのもあろう。でも、そんなものになにがしかの価値があるのであろうか。修復的司法を問題にするとき、つねにこのような主張へ傾斜しがちであるところがひじょうに気になるところである。
# 被害者関係的(被害者心情同化的)司法と書いたのは、一応、こういったものは修復的司法ではないということ。

 そんなもので、正義=justiceは修復されわけがない。当然、応報的意味での正義の回復も、非行・不良行為の抑止にもならないし、改善・更正とも無縁である。じゃぁ、加害者からの自発的な謝罪なら問題ないのか、というと、実はそうでもない。その典型例をこの親子は示してくれている。

 史郎氏は18日、内藤に、「今回のことはすまんかった。内藤君もがんばってや」と上から目線だが、一連の問題について初めて謝罪を伝える電話を入れた。大毅も内藤宅を訪れ、頭を下げた。内藤は史郎氏に「いいですよ、お父さん」と語り、当事者間の遺恨はなくなったかに思われた。


 ただ、以下の記述を内藤は、どう感じるか。


 ≪俺も謝る時はあるよ。興毅が勘違いして、別の相手をボコボコにしすぎてしまってな、明らかにこっちが悪いときがあるやん。


 そんな時は、もうオーバーアクションや≫


 そして父子は土下座して相手に謝罪する。


 だが、≪帰り際にな、「さっきは、ウソやったの、わかったか」って聞くと、興毅はわかっとって、「わかってるよ、一応、謝っておけってやつやろ」って≫

「亀田一家の反則教育…『闘育論』のスゴい中身」話題!‐話のタネニュース:イザ!



 謝罪が本心なのか、そうでないのかは、実のところは、本人しかわからないところであろう。被害者心情に同化するマスコミなどは、本心でないだろうと被害者がいったなら、それに追随するであろうが、実は本心で謝罪していた加害者はそれを示す術などもちようがなく、袋小路に追い込まれてしまう。

 じゃ、とりあえず、自発的な謝罪ならよいのだということであれば、この父親が述べているようなケースはなんらの意味もないこととなる。

 謝罪だけが修復的司法ではないが、事実的効果、実効性等を問題にすれば、つねにこのような状況が生じるのであって、それに対する解答は十分になされていないように思う。他方で、効果・実効性をなしにしてしまえば、応報的正義(司法)にかえて修復的司法をあえていう意味がほとんどなくなってしまうであろう。



 亀田家の息子たちがボクシング界へ復帰することができるかどうかというのを、非行少年の社会復帰にオーバーラップさせてしまうのは、職業柄の悪い癖なのかもしれない。ただ、復帰できなかったとき、それの原因がこの一家を取材しまくったマスコミにあった(もしそうであっても、当然否定するだろう。「正当な取材」だった、って。)としたら、そのようなマスコミ報道を求めた国民(私を含め)が一番悪いかもしれない。

# たんなる外部的な出来事だけでなく、人の心の中についてもその真実を明らかにして報道できると考えているなら、それはおごりである。「真実」を伝えるとか、知る権利なんて錦の御旗をたてて、のぞき見趣味から金を稼いでいるだけでしかない。

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そんなかで、裁判官になろうと思う人は何人いるのだか?

徒然憲法草子~生かす法の精神~
請願書「修復的司法の実現を望む!」

軽微な交通違反における「現行犯逮捕の濫用」
の実態の改善について

 ドイツは、1968年、交通違反を刑法の「犯罪」の概念から除外した。単なる交通違反にとどまり、他人の身体、生命、財産といった法益に対して具体的な危険を生じさせなかった行為は、酒酔い運転や無免許運転を除いて、犯罪とはならず、「秩序違反法」による過料扱いとした。秩序違反は不法性の程度が一般的に軽微であることから、ドイツでは、強制処分には法律上の制約があり、例えば、仮逮捕や拘留は一切認められていない(46条3項)。つまり、ドイツでは、軽微な交通違反での警察官の逮捕、拘留こそ、犯罪行為となる。

 ところが、日本では、交通違反は犯罪の位置づけなので、警察官が違反を現認したとして、違反事実に異議を申し立て争う市民を逮捕する。高知県警の情報公開資料「交通反則行為に係る現行犯逮捕一覧表」によると、逮捕件数は、平成20年28件、19年39件、18年40件、17年70件となっている。昨年度の28件の内、一時停止12件、踏切1件、転回1件、通禁3件、信号点滅1件、信号無視3件、速度7件が実態である。

 強制的な逮捕という手続きをとらなくても任意同行で十分な事案において、現行犯逮捕を濫用しているこれらの実態について、刑事政策上、人権との比較考量を再考する必要があるのではないでしょうか。

 ドイツ基本法第一条「人間の尊厳は不可侵である。それを保障し、擁護することは、全ての国家機関の責務である」との国際人権規約に則った法理念は、世界人権宣言を批准している日本国においても、尊重されるべき内容でしょう。

 日本国憲法の法体系は、第99条において、その責務を明確に規定している。他人の身体、生命、財産といった法益に対して具体的な危険を生じさせない交通違反の多くは、諸外国の規範に倣い、非犯罪化する必要があるのではないか。

 なによりも、軽微な交通違反における「現行犯逮捕の濫用」の実態に対して、修復的司法の実現によって、早急に、しかるべき立法措置並びに刑事政策的問題解決を図って頂けるよう請願申し上げる。


高知・コスタリカ友好交流を創って行く会

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このページは、Tetusya Ishiiが2007年10月21日 09:01に書いたブログ記事です。

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