宣告刑の重さと無免許運転罪の故意

| コメント(3) | トラックバック(0)

 国民保険料に関する大法廷判決がでました。憲法84条の租税法律主義の趣旨はおよぶものの、旭川市の条例の違憲性は否定したというものですが、通常の租税でも、大枠は法律で決められているものの、具体的な算定になると、通達集とにらめっこしないとわからなかったりしますから、これを違憲にしたら、国税関係の法律が全部違憲になるだろうと、素人的に思っていたので、探しに行ったら、刑事法の判例もでていました。

 一つめは、刑訴法402条の不利益変更の禁止に関する刑の重さの判断に関するもの。第1審判決は「被告人を懲役1年6月及び罰金7000円に処する。その罰金を完納することができないときは,金7000円を1日に換算した期間被告人を労役場に留置する。」で、控訴審は、破棄自判(刑訴法397条2項)により、「被告人を懲役1年2月及び罰金1万円に処する。その罰金を完納することができないときは,金5000円を1日に換算した期間,被告人を労役場に留置する。」との判決をしたというもの。これについて、

 第1審判決と原判決の自判部分は,いずれも懲役刑と罰金刑を刑法48条1項によって併科したものであるが,原判決が刑訴法402条にいう「原判決の刑より重い刑」を言い渡したものであるかどうかを判断する上では,各判決の主文を全体として総合的に考慮するのが相当である。そして,原判決の刑は,第1審判決の刑に比較し,罰金刑の額が3000円多くされた上労役場留置期間の換算方法も被告人に不利に変えられ,その結果労役場留置期間が1日長くされているが,他方で懲役刑の刑期は4か月短くされているのであるから,これらを総合的に考慮すれば,実質上被告人に不利益とはいえず,上記の「原判決の刑より重い刑」に当たらないことは明らかというべきである。

 併合罪加重における罰金の併科(刑法48条1項)をするとき、懲役刑と罰金刑それぞれ個別に刑の軽重を判断するのではなく、全体として総合的に判断するというもので、宣告刑が懲役刑と罰金刑の統合されたものとみるならば、このようになるのが一貫しているのでしょう。併合罪加重が単純加算方式なら、個別にみていくことになるのでしょうが、現行刑法はこのような立場とみる(罪数論がいらなくなる)のは困難でしょう。

 もう一つは無免許運転罪の故意に関わるもの。もともと乗車定員15名の自動車であり、車検証でも定員15名となっていたが、被告人の所属する会社で、かなり以前から、広報6人分の座席を取り外していたものを、普通自動車免許しかない者が運転したという事案です。判決理由にあるように、乗車定員が11名以上となるときは、大型自動車となり、その運転には大型自動車免許が必要となります。というわけで、客観的に、大型自動車を無免許で運転したということは明らかで、問題は被告人に無免許運転の故意があったかどうかということになります。裁判所は

被告人は,普通自動車と大型自動車とが区別され,自己が有する普通自動車免許で大型自動車を運転することが許されないことは知っていたものの,その区別を大型自動車は大きいという程度にしか考えていなかったため,…(略)…本件車両の席の状況を認識しながら,その点や本件車両の乗車定員について格別の関心を抱くことがないまま,同社の上司から,人を乗せなければ普通自動車免許で本件車両を運転しても大丈夫である旨を聞いたことや,本件車両に備え付けられた自動車検査証の自動車の種別欄に「普通」と記載されているのを見たこと等から,本件車両を普通自動車免許で運転することが許されると思い込み,本件運転に及んだものであった。

と述べて

本件車両の席の状況を認識しながらこれを普通自動車免許で運転した被告人には,無免許運転の故意を認めることができるというべきである。

としたものです。

 従来の議論からいくと、本件の被告人について、故意があったのかどうか、あるいは、本件自動車を運転してよいと考えて運転したことが違法性の錯誤か事実の錯誤かという枠組みで論じることになるのでしょう。そして、もともと15人乗車可能な形態であるという認識をもっていたので、そのような自動車を運転するという認識で故意として足りるとしたとものととらえることになるのではないかと思います(原審等みていないので、この点についてさらに精査は必要です)。

 個人的な関心としては、このような事案において、事実の認識か違法性の意識かという二元的な把握がはたして可能であるのかということがそもそも問題となりうるのではないかと考えています。そのような問題意識にあえてひきずるトリガーとして、判決理由で「その点や本件車両の乗車定員について格別の関心を抱くことがないまま」と述べられたことを指摘できます。そして、法に関する無関心だけでなく、事実に関する無関心も故意を基礎づけるのではないか、あるいは、そもそも無免許運転罪においては事実認識と違法性の意識を区分することは困難であり、事実と評価という二元論的な錯誤論の理解そのものがもはや維持できないのではないかということに展開できるのではないかと考えています。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.tiresearch.info/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/48

コメント(3)

きょうiusは、ここに保険とか判決♪

背任罪の任務違背の認識においても同様のことが言えると思います。Jakobs, NStZ2005,277の右段下の方ではさらに所有権犯罪における他人性のの認識もその例として挙げています。同,278ではそのような場合に事実無関心を故意としないと、矛盾が生じることを指摘してます。またこの前の研究会で気がついたのですがRoxinも早すぎた構成要件の実現についてそれに関する無関心を実質的に故意既遂説の根拠にしています。因果経過について認識が要らないとか相当性でいいとかいう見解も、その点に関してはdolus indirectusを認めているのと同じだとドイツでJakobsの元助手のドイツ人の友人も言っていました。私も事実に関する無関心は故意と評価すべきだし、解釈論としても可能だと思います。

ネットで大きい国民保険とか、国民保険や大法廷と広い国民保険を判決したかった。

最近のブログ記事(けったいな刑法学者の戯れ言)

2011-04-17
さすがだな…てっちゃん。ヲタクとして完…
2011-04-17
さすがだな…てっちゃん。ヲタクとして完…
あけおめ

最近のブログ記事(続々・けったいな刑法学者のメモ(補訂版))

科学的証拠の意味
 年度が替ってから,次期中期計画がらみの…
イスラムの刑罰と法(メモ)
 イスラム法で,犯罪は,次の三つに分類さ…
第4回情報ネットワーク法研究会開催のお知らせ
 スーダン出身で現在U.A.E.の内務省…