平山幹子『不作為犯と正犯原理』

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 本書に関連しては、学会報告もあり、刑事法ジャーナルvol.4には書評も載っています。ちょっと、不作為犯がらみが続いているのでその流れで。
 基本的には、刑事法ジャーナルの島田書評に述べられていることだろうと思います。とくに、()内に書かれている心の声がより重要ではないでしょうか。個人的には、因果性の問題を重視するのであれば、義務犯ということはいう必要がない気もします。もし作為犯が因果性で規定されるのであれば、真正不作為犯のみを義務犯とすればたりるのであって、不真正不作為犯は別の根拠による基礎づけがさらに必要になってきそうではないかということが、私の感想です。

ドイツ刑法13条の意義参照

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コメント(5)

Jakobs説に従い作為犯にも不作為犯にも保障人的地位が必要だとすると、平山説によれば作為犯の保障人的地位は「因果力」によってのみ基礎づけられていることになり、因果性以外の理由で客観的帰属を否定することができなくなります。因果性が否定できない中立的行為による幇助や共犯から離脱の問題は客観的帰属レベルでは解決できなくなるのがその論理的帰結です。

だから、作為犯の保障人的地位は、「因果力」では基礎づけられないというのが、Jakobs説の意図でしょう。その意味で、「因果力」のない(不真正)不作為犯と同じ帰属原理に服するというわけです。

「本書に一貫して存在する問題意識は、自然的な因果力や事実的な支配の有無、それにもとづく犯罪行為ないし正犯者の把握には限界があるのではないか」「作為犯であれ不作為犯であれ、正犯や共犯の成立にとって物理的な意味での因果力は重要ではない」平山幹子『不作為犯と正犯原理』2頁他。

平山幹子『不作為犯と正犯原理』1頁(序)
「…以上を通して、本書はとくに、不作為犯論および共犯論の双方の観点から、物理的な意味での因果力ないし事実的な要素を重視する犯罪行為の把握の仕方には限界があること、また、正犯原理の一元的な理解はもはや維持できないことを示す。さらに、日本の不作為犯論および共犯論においてキー概念とされている、いわゆる『排他的支配』概念の捉えなおしを試みる。」

> たぬき先生
全面的にJakobs説でいくのならよいのですが、そうではなく、上の甲○大生くんの書き込みにあるようなことを全体として貫いているわけではないんじゃないのか、ということを問題にしているのです。

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