威嚇は、調教可能なあらゆる生物に対して可能であり、有責的に行為する行為者だけでなく、子供、精神病者又は精神的遅滞者、さらには犬などのいくらかの動物にも可能である。もし刑罰が威嚇による調教にすぎないのなら、すべての文化的な近代刑法によって取り入れられてきた責任主義はいったい何だったのであろうか?
法益保護説は決して制限的なものであるわけではない。一定の〔政治的〕方向(Fahrwasseer)においては、より拡張的にもなりうる。たとえば実際ナチス時代にドイツがそうであったように、一定の政党の存立、人種の純粋性などを罪であるとすることさえ可能である。同様にそのような無理な要求(Zumutungen)の拒否は、一つの政策的課題であって、純粋な解釈論的課題ではないのである。
Günther Jakobs(翻訳・川口浩一)「どのようにそして何を刑法は保護するのか?-否認と予防;法益保護と規範妥当の保護」姫路ロージャーナル1号(2005年)33頁以下
民主党は、飲酒・ひき逃げ等悪質な交通事犯を抑止するため、(1)刑法に「酒気帯び運転等業務過失致死罪」を新設するとともに、道路交通法上の救護義務違反の法定刑を引き上げることにより、飲酒ひき逃げの最高刑を15年とする
Roxinは、法益概念がリベラルな内容をもつという。しかし、上記の法案は、法益保護主義が、責任主義を否定し、なんらの規制的な機能を持ち得ていない例としてあげることができるかもしれない。Jakobsは、非人格化するというが、簡単に言えば、人を人として扱わないということである。
追記
引き上げられた刑期中に、刑務所の中ではなにをやらせる計画なのでしょうか。「刑の引き上げ」だけで話は終わりません。
刑事政策の方の視点も、興味深いものです。まったく違うところに目がいくところが、ある意味新鮮です。
人種をするんだ