最高裁のウエブにシャクティ事件が公開されました。しかし、このドミノまんまのURLはなんとかなりませんか?アメリカの連邦最高裁のようにPDFで公開するとか、もう少しスマートな方法がありそうなものです。
で、決定のポイントは以下の通りです。
「被告人は,自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた上,患者が運び込まれたホテルにおいて,被告人を信奉する患者の親族から,重篤な患者に対する手当てを全面的にゆだねられた立場にあったものと認められる。その際,被告人は,患者の重篤な状態を認識し,これを自らが救命できるとする根拠はなかったのであるから,直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務を負っていたものというべきである。それにもかかわらず,未必的な殺意をもって,上記医療措置を受けさせないまま放置して患者を死亡させた被告人には,不作為による殺人罪が成立し,殺意のない患者の親族との間では保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となると解するのが相当である。」
ポイントは、先行行為による具体的な危険の惹起、患者の手当を全面的に委ねられていたという地位が作為義務の根拠と解されたというところです。
# 某書のように、排他的支配の考えの誤った理解*からは、これは説明できないでしょうね。
この立場を前提にしたとき、どこに実行の着手があるのかも、ついでに考えておく必要もありそうです。「直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務」を負っていたとありますので、運び込まれたホテルでの不作為に実行の着手が認められそうです。
次に、不作為の共同正犯について、殺意のある者について殺人罪を認め、殺意のない親族について保護責任者遺棄致死罪の共同正犯を認めることを明言したところも重要でしょう。もっとも、この場合、共同行為者全員が作為義務を負う場合(あるいは保障人的地位にある場合)、不作為犯の共同正犯が認められるということなのか、作為義務の連帯を認めて、作為義務のない親族についても、共同正犯を認めるのかということは、重要な問題となります。また、罪名従属性に関する判断としても、重要な意味を持つものといえるでしょう。
体調がよくないので、速報的に。
* その本によれば、偶発的要因によっても排他的支配がありうるそうです。それを盲信した学生は、深夜ひとけのないところでの単純なひき逃げで、作為義務があると書くのです。その本がおそらく依拠しているのは、大谷・総論でしょうが、そこには被害者と行為者との人的関係に基づく具体的依存関係とあります。西田説における排他的支配も、そのようなことはいっていませんし。。。