落雷に関する知見と落雷事故発生の危険の予見義務

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 民事の判断ですから、かならずしも刑法とは結びつかないかもしれません。

A高校の第2試合の開始直前ころには,本件運動広場の南西方向の上空には黒く固まった暗雲が立ち込め,雷鳴が聞こえ,雲の間で放電が起きるのが目撃されていたというのである。そうすると,上記雷鳴が大きな音ではなかったとしても,同校サッカー部の引率者兼監督であったB教諭としては,上記時点ころまでには落雷事故発生の危険が迫っていることを具体的に予見することが可能であったというべきであり,また,予見すべき注意義務を怠ったものというべきである。このことは,たとえ平均的なスポーツ指導者において,落雷事故発生の危険性の認識が薄く,雨がやみ,空が明るくなり,雷鳴が遠のくにつれ,落雷事故発生の危険性は減弱するとの認識が一般的なものであったとしても左右されるものではない。なぜなら,上記のような認識は,平成8年までに多く存在していた落雷事故を予防するための注意に関する本件各記載等の内容と相いれないものであり,当時の科学的知見に反するものであって,その指導監督に従って行動する生徒を保護すべきクラブ活動の担当教諭の注意義務を免れさせる事情とはなり得ないからである。

 過失を認定するときに行為者の知見・能力と一般人の知見・能力とを同判断の基礎とすべきかという問題があります。原審は

平均的なスポーツ指導者においても,落雷事故発生の危険性の認識は薄く,雨がやみ,空が明るくなり,雷鳴が遠のくにつれ,落雷事故発生の危険性は減弱するとの認識が一般的なものであったと考えられる

としているのですが、個人的な経験上、平成にはいってもなおこれが平均的認識とするなら、スポーツを指導する資格がないくらい平均は低いものだという印象です。この判決を読んでまず思ったのは、坂東三津五郎ふぐ中毒事件(最決昭和55年4月18日刑集34巻3号149頁)です。この事件で、弁護側は、ふぐ毒は水洗いや加熱調理によって薄まるという俗説に依拠して無過失を主張した(はず)のですが、すでに京都の条例がふぐに関する科学的知見を取り入れて規制したことなどから予見可能性を肯定した下級審の判断を支持しています。
 原審の判断の依拠したものは、ふぐの毒は水洗いをすればなくなるという俗説と同じようなものだと思うのですが、最高裁が、そういう意味で、これを排除したのか、あるいは、平均的指導者の知見を基礎に判断すべきでなく、当時の科学的知見に照らした判断すべきとしたのかというと、どうも後者のようになります。
 民事上の過失はともかく、このような科学的な知見のみを基礎として、刑法上の過失を判断してよいのかとなると慎重な検討が必要でしょう。しかし、スポーツを指導する者は、その前提として、指導のための的確な知識を習得しているべきで、その点に無関心であったことに責任を問いうるということは、なお可能ではないかと思います。

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