容疑者の置き去り行為は、毅君が死ぬかもしれないと認識しながら連れ回し放置した、「未必の故意」による殺人未遂にあたる可能性もあるとみている。
asahi.com:男児ひき逃げ、指名手配の容疑者逮捕 佐賀・唐津 - 社会
交通事故により重傷を負わせ、被害者を連れ回した場合に、殺人罪が成立するかというのは、不真正不作為犯の典型的な問題として取り上げられます。この場合、作為義務があるかどうか、あるいは、作為による殺人と同価値といえるかどうかということが議論されます。(保護責任者)遺棄罪と殺人罪はともに生命に対する罪ですから、その作為義務の内容は共通するものがあります。危険犯と侵害犯とみるなら、遺棄罪の実行行為と殺人の実行行為は危険性の量的程度の相違でしかないと考えることもできます。そうすると、不真正不作為犯における同価値性の判断で、殺人罪と遺棄罪をどう区別すべきなのかということが重要な問題となってきます。しかし、量的な相違に過ぎないとすると、これを客観的に区別することは困難となります。そのため、生命に対する危険犯として遺棄罪が規定され、そこに真正不作為犯の処罰も規定されていることから、不真正不作為犯の殺人罪は認めるべきでないとする見解、あるいは、殺人の故意がある場合には同価値性を厳密に判断することなく、殺人罪を認めるべきであるとする見解が主張されます。
殺人の故意があれば殺人罪すべきであるとの見解は、客観的な同価値性の不足分を主観的な故意により補っているのではないかという疑念があるだけでなく、そこで問題とされる故意の実体にも問題があるように思います。故意は犯罪事実の認識・意思とされますが、不作為犯の作為義務の錯誤に関する議論にみられるように、ここでは義務を基礎づける事実あるいは保証人的地位を基礎づける事実が故意の対象とされています。しかし、不真正不作為犯として殺人罪の成立を認める際に、作為義務を基礎づける事実の認識をこえて、「死ぬかもしれない」など被害者の死への意思を要求することは、実は法益侵害の認識、実質的な違法性の認識を要求していることになります。もしそうでなければ、故意の対象となる事実の認識と切り離された情緒的な心情が行為の違法性を基礎づけているのではないでしょうか。どちらであっても、この見解を主張する論者が前提とする立場とは相いれないものといえます。
むしろ重要なのは、殺人罪との同価値性をどのような基準により肯定するのか、またその基準にしたがい、どのような事情を基礎として同価値といえるのかということであり、行為者がそのような事情を認識していたのであれば、少なくとも通説・判例からは故意として十分なはずです。
なお、殺人罪については不真正不作為犯を緩やかに認定するのに、他の犯罪ではその成立を厳しくするというのであれば、バランスが悪いわけで、この点については慎重な判断が必要でしょう。殺人罪と遺棄罪が生命に対する罪であるとしても、侵害犯と抽象的危険犯ではその罪質が根本的に異なるわけで、同価値性の判断において、両罪が量的な相違でしかないと割り切ってよいのかということも、一考を要するかもしれません。