幇助の成立範囲

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 調べでは、X容疑者は17日夕、Y容疑者を自宅から約2キロ離れたJR長崎駅前の選挙事務所近くに送り届け、前市長殺害を手助けした疑い。

#筆者により匿名化

NIKKEI NET:社会 ニュース

 殺人の正犯を殺害実行現場へ運搬したことが幇助とされたようです。では、実際に運搬したのが、タクシーの運転手であり、前市長の選挙事務所付近が行き先で、客がけん銃を所持しているのを認識し、もしかしたら前市長を殺害するのではないかと考えていた場合、このタクシーの運転手に殺人幇助罪は成立するのでしょうか。

 結論からみれば、報道にあるような場合もタクシーの運転手の場合も、いずれも幇助とはいえないとするもの、いずれも幇助となりうるとするもの、タクシーの運転手の場合は幇助にならないが、報道のような知人がそれと知って運ぶ場合は幇助になりうるとするもの、が、考えられます。客観的・事実的にみれば、どちらの場合も、殺人犯人を自宅から殺害現場近くまで運んだということにかわりはなく、このような視点からは、両者を別異に解することはできなくなります。
 知人の場合は、殺害に関する確定的な認識がありますが、タクシーの運転手は未必的にすぎないという相違に注目して、幇助の故意は未必的認識では不十分だとすることで、タクシーの運転手について幇助を認めないという結論は可能でしょう。あるいは、タクシーは人の運搬を業務としているので、その点に着目して幇助としないとする考えもありえます。
 しかしながら、故意を否定する考え方に対しては、なにゆえ幇助では確定的認識が必要とするのかその基礎づけがあまり明らかにはなっていません。放火罪の不真正不作為犯において、既発の火力を利用する意思によって不作為犯の成立範囲を限定すべきとの見解と同様、結局は、ともかく主観面で限定すればよいのだという安直な根拠にとどまっている気がします。他方、仕事だと許容され、仕事でないと許容されないということになれば、一般の犯罪についても、仕事でやった場合、たとえば企業の業務活動の一環として犯罪(たとえば、贈賄や談合)をおこなった場合には、その処罰を否定すべきことになります。
# タクシーの場合であっても、違法な結果を惹起することがわかっているのに業務をそのまま遂行させる義務があるとする立場もありますが、そのような義務はきわめて法的な根拠が薄弱なものです。だったら、業務命令であれば、談合をやる義務も認めることも可能です。
 あるいは、幇助行為が問題となっている者について、どのような法義務が認められるのかということを問題にしてもよいでしょう。しかし、その場合であっても、タクシーという業務という要素はそれほど決定的でないような気がします。むしろ、義務の存否・範囲について確定するには、その前提として、行為者がどのような事情を認識しているのかということは問題にせざるをえないかもしれません。
 個人的には、共犯の因果性について、そもそも物理的因果性を考慮すること自体に一つの問題があるように考えていますから、相互の意思疎通がない片面的従犯などそもそも認めるべきでないということで、タクシーの運転手の場合は幇助を否定することになります。知人の場合も同様で、意思疎通がなく、片面的な場合には、やはり幇助を否定すべきといえます。

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大きい前市長とか、大きい事務所とか、疑いなどを殺害しなかったの?

きょうは殺害♪

BlogPetのコメントが強烈ですね・・・(^^;

そのコメントに引きずられる形で、ふと思ったですが、インターネットのサイト(例えばblogなど)において情報を発信することは、不特定多数の人間に対して情報を発することと同じですよね?

そのサイト上にある犯罪の仕方が書かれていて、そこに書かれている情報を読んだ人が、そこに書かれていた言葉・思想に共感・同調し、結果的に精神的に背中を押される形になって犯罪を犯した場合、その情報発信者も、「概括的な故意」があるとされ、「片面的従犯」の射程となるのでしょうか?

そうなってしまいかねない危険がありますが、それではおかしいので、なんらかの形で一定の制約をしようと種々試みられています。が、実務で受け入れられやすい形でこれを構成するのは難しいかもしれません。

 「なんらかの形で一定の制約をしようと種々試みられてい」るというのは、「社会的相当性」や「許された危険」といったといった考え方のことをおっしゃっているのでしょうか?

 そういった考え方(「社会的相当性」や「許された危険」)を持ち出して(共犯(幇助)の範囲が広がっていくのを)制約しようと試みる動きもあるが、そもそも、それ以前の因果的共犯論における「因果性」の考え方自体に問題があるんじゃないか? 正犯と共犯の相互の共働関係(もしくは、意思疎通)があったのか、なかったのかという視点に立ち返って考えるべきなのではないか?

 ・・・ これまでの先生のblogのエントリーを拝見すると、先生は、そのように考えていらっしゃるように感じたのですが、間違っていますでしょうか?

おおよそそうです。
社会的相当性や許された危険からアプローチにかぎらず、客観的帰属論だという立場あるいはその他の立場も、結局、実質的に社会的相当性や許された危険と同様のレベル(やっていることの実質もふくめて)にとどまっているものがほとんどではないかという印象を持っています。

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