包括一罪と観念的競合

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 引きこもっている間にいろいろおもしろいことが起きていたようですが、かなり古いネタでいくと、街頭募金の詐欺について、被害者をすべて特定できないから、全部まとめて包括一罪にしようとかという話があります。別にやってもらってもよいのですが、罪数論にかなりひずみを生じさせるような気がします。
 従来は、包括一罪は基本的に法益侵害の一体性を根拠に一罪とすることができたわけで、その意味で違法の一体性が基礎にあります。ところが、法益侵害が複数にわたる場合にまで包括一罪を肯定しようというわけで、もしそれが可能ならば、街頭募金という継続的な行為の一回性、より厳密には責任の一体性を根拠にせざるを得なくなります。でも、このような責任の一体性あるいは行為の一回性というのは、観念的競合がもともと受け持っていた領域だったわけです。このことは、方法の錯誤において法定的符合(抽象的法定符合)説が実体法上複数の故意犯の成立を認めても、観念的競合で一罪として処罰するので、責任主義に反しないとしていることから容易にわかります。
# もっとも観念的競合は、責任の一個性というより、量刑事情の重複による二重処罰の回避という面が強いかもしれません。そういう意味では、刑事責任の一個性というほうが適切でしょう。

 そうすると、もし、街頭募金の詐欺について包括一罪とするのであれば、方法の錯誤の場合にあっても、責任の一個性を根拠に包括一罪としても問題がない(林幹人説)ということになります。厳密にいえば、方法の錯誤の場合は、故意は一個しかありませんが、街頭募金の場合は、概括的故意となりますので、故意は複数あるということにもなります。となってくると、殺人の場合についても、概括的故意の事案は包括一罪ということになるのでしょうか。
 で、どうも下級審レベルですと、目的が一個であれば、複数被害者に対する複数行為についても、包括一罪にしているものがあるようです(おそらく児童ポルノ製造罪)。これも意思の一個性による一罪です。主観的違法要素としての目的を認めない立場からだと責任の一個性で説明できちゃいます。何か変です。
 ついでに、観念的競合の行為の一個性もそれほど明確なものではないです。判例のいうような自然的な行為が一個かそうでないかなど基準として機能していないですから。行為の意味は、社会的なコンテキストによって規定されますので、どのような文脈に依拠するかで、一個かそうでないかは、変わってきます。また、人はなんらかの意味づけをしないと物事を認識できないですから、意味づけのない「自然的」行為(カントのいうDing an sichに相当するのでしょうか)は認識できないことになります。

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コメント(1)

私は包括一罪とされていた事例の多くでは、観念的競合が認められるのではないかと考えています。ご指摘の通り、観念的競合においても実は行為の一個性は純粋に「自然的」には決定できないものです(Vgl.Jakobs32/35ff)。詳しくはもう少ししてからまた検討してみます。
ボンより

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